酔心抜刀術 兄弟之噺

# 起

夕刻、私と酒を飲んでいた兄は、不意に黙りこみ、片の掌で口元を覆うと、四半刻ほど固まっていた。このように兄が己の世界に入るのはいつものことである。そのあいだ私は酒を進めていた。囲炉裏の火が揺れていた。

ふいに兄が意識を取り戻した。
「小三郎」
「はい」
「俺は、狭間幻鏡流の奥義を会得したかも知れん」
「はい」
毎時の戯言なので受け流す。
「出るぞ!薪でいい!薪を投げろ!」
「……はい」
兄は、業物・景虎を取り上げ庭に躍り出ると、すぐさま抜刀し、脇に構えた。私も猪口を持って付いていく。

庭へと出ると、小春の夜の折であり、いい草の匂いがした。これから育つ若草の匂い。
その気持ち良い匂いに、私は、一時、我を忘れて空を見上げた。夜空に浮かぶ月は満ちている。空は遥かに澄んでおり、明日は晴れではないかと思われた。

目を戻すと、兄弟子である次郎兄は、宵闇の中で刀を振り回していた。いつの間に脱いだのか、兄は、上半身を裸にしている。隆々たる身体から蒸気が上がっている。満月のためか、思いのほか明るい野外に、景虎が輝いていた。

……正直、面倒くさい。

我々は、昼から酒をやっていた。浪士は暇なのだ。私もそこそこ酔っていて、いまいち視界がおぼろであった。
「薪!薪はまだか!」
兄がうるさい。

誓って言いたい。このとき私が酔っていたのは確かであるが、兄も、間違いなく酔っていたはずだ。だから私は、まあいつものことだと思って、兄に向けて薪を投げ上げたのだ。


# 承

"奥義を会得した"。

我々の酒宴の終盤に差し掛かると兄はいつもそう言い出し、刀を携えて庭へ出る。私にも外に出てくることを命じて、決まって、薪を投げさせた。なんということもない、酒に酔って気の抜けた太刀筋で、私が投げ上げた薪に斬りかかり、かろうじて木っ端を飛ばすだけ。特に形を変えていない薪が地面に落ちて、数秒、兄は固まる。そして、
「寝る」
とだけ私に告げ、部屋に入ると、確かにそのまま寝る。兄にとってこれは入眠の儀式なのかも知れない。


# 転

今回も、私は、何気なく薪を投げ上げた。
ああ、早く終わらないかな。小屋の酒を取ってきたら怒られるかな。

ひゅおう、カココン

空中に鳴いた音に兄を見ると、兄はすでに刀を鞘に収めており、私が投げ上げた薪は、4ツに割れ、地面に落ちていた。

「酔いも醒めるような」という表現があるが、それがまさにこの瞬間だった。理解が及ばない事象に立ち食わすと、人体は、"酔い"などという些末な身体の異常を打ち消すことができるのかも知れない。

兄は、仁王に立ち、己が4ツ割にした薪を眺めている。月光に浮かぶ薪の断面はなめらかで、兄の抜刀術の精密を映し出していた。

私は、何も言えなかった。

正直に言うと、よく見てなかったからだ。
カココンという音がしたから、私が飛ばした薪を兄が二回斬ったのだと思う。実際、そこに4ツ割の薪が落ちている。そうだとしたら、これは確かに、狭間幻鏡流の奥義に達しているかも知れない。空中で薪を斬れるか?それも2回も?いや、おかしいでしょ。

とんでもない出来事に立ち会った――。


# 結

「小三郎」
「……はい」
ちょっとこの人やばいなと思い改めて、私は努めて冷静に応えた。
「俺はこれが狭間幻鏡流の奥義じゃないかと思う」
兄が、鬼の形相で言う。兄の機嫌を損ねないためだけに、私は神妙に「そう思います」という顔をする。できていたと思う。
「俺はこれが奥義ではないかと思う」
2回言うな。
「お前にも伝えておこうか」
いや、いいよ、いいですから。私ちょっと酔い醒めましたし、ちょっと怖くなってきました。
「狭間幻鏡流は"空の呼吸"が重要なんだ」
やめて、教えないで、怖い。
「まず、体の横につけるように、かたにゃ……、刀を構えるんだ」
うん?
「それから、いたたちめ……、一太刀目は空を割くように。それから、ふたたちみゃ……は、こう……、闇を裂くように……」
なんて?
「……兄さま、酔うておられますよね?」
問わずにはいられなかった。
「いや、酔ってはおらん。酔ってこの奥義を執り行えようか」
奥義っぽいもの見せられた手前、文句が言えない。
「しょ、正直に申し上げまして、兄さまは素面であるとしても、私は酔うております…!
 申し訳ございませぬ…! また明日に伝授していただけませぬでしょうか……!」
精いっぱい取り繕う。
「小三郎、酔うておったか。しょれ……、それならば俺ももう眠るとしよう」
しょれって言った?
まあいい好機だ。手元の猪口の酒を飲み干し、盆の上に置く。
「はい、もう床に就きましょう」
廊下に上がった兄の目が光り、刀の光が閃く。

剣筋がまったく見えなかった。おそらく、狭間幻鏡流 秘伝・花落線剣。私に見せてくださったのか。兄が剣に手を懸け動いたと思った瞬間、気付いたときには兄は刀を収め、私の後ろを歩いていた。そして、私の猪口が、無数の切り口をともなって割れていた。この数瞬のあいだに兄が斬ったのだ。すさまじい。すさまじいけど、なんで俺のお気に入りの猪口を割ったんですか。

兄は、
「寝る」
と告げると部屋へと入っていった。

私は、明日から酒を控えようかと思った。この人と過ごすの怖い。