【小説】私の心で空を飛ぶ

半月よりもすこし膨らんだ月が沈むころ、今夜も私は出かけることにする。

寝巻の上にセーターとコートを着込む。耳まで隠れるニット帽をかぶる。
くちびるに厚めにリップを塗る。マフラーで顔の半分を隠す。手袋をつける。

部屋の電気を消して、音が鳴らないようにベランダの扉を引く。
予想通りに外気は冷たくて、マフラーから漏れる息も白くなる。
ちぎった綿のような雲々の向こうに夜の空が真っ黒に広がっている。

このあいだ買った寝袋を取り出し、足を入れて胸まで持ち上げる。
やっぱりひどい格好だなこれ。でもここまでしないと寒いしなあ。
「……ふふ」
それでもなんか微笑んじゃう。

暖かい紅茶を入れたタンブラーを寝袋の下のコートのポケットに突っ込む。
寝袋にくるまったミノムシみたいな姿のまま、
転ばないように跳ねてベランダに出る。後ろ手に引き戸を閉める。

「行きましょうか」

軽く跳ねてそのまま浮き上がる。
私は空に向かう。ゆるやかな速度で上昇していく。

「……寒いなあ」
できるかぎりの格好をしたつもりだったけど、冬の夜の空はどうにも足先が冷たい。
上半身の防寒ばかり考えてしまってたかな、寝袋の中で両足をこすりあわせる。
体をくるりと地上に向けると、私の家の屋根はずいぶん小さくなっていた。

顔を上げると、この町を取り囲む山々が黒く沈んでいるのが見える。
山の形だけは分かるけれど、森も地面も生き物もみんな闇の下に眠っている。
まばらに立つ送電塔のランプが小さく赤く点滅しているだけ。
山のすそに流れる川もほとんど判別できない。
目をこらすと月の光を切れ切れに反射しているのが見えて、
水が流れていることがようやくわかる。

雲が近くなった。
どうにもまだ寒い。すこし体を慣らしておこう。
寝袋に包まったまま軽く伸びをして、そのまま空に横たわる。
うつ伏せになって、私の町を見下ろす。
屋根に隠れているせいか、真下の景色にそれほどの力を感じない。
少し顔を上げると山のふもとまで広がった明かりが見える。
なんだかふしぎな気分だ。
町の生活の音はここまでは届かない。かすかに電車の走る音だけが響く。

寝袋の中でコートのポケットをあさって、チョコの包装紙をむく。
なんとか口元まで運んでかじる。甘くておいしい。

そろそろ行こうか。
体を起こして、私はさらに上に昇っていく。
雲の中に入ってしまわないように気を付ける。
冷たいし顔が痛いし全身が濡れてしまうし、何もいいことがないから。

そうなんだけど、私の昇っていくスピードより雲の動きはずっと速い。
「うわっぷ……」
だからときおり引っかかる。
これほんとに嫌なんだよ……。
雲に入ってしまうと視界がなくなる。
なんとか寝袋から両手を取り出して、顔を覆う。そのまま上昇して、雲を抜けるのを待つ。
顔も寒いけどなんとかなっている。なにより足が寒い。
体育座りの格好で体を丸めるけど、寒いものは寒い。靴下も二重に履いたのになあ……。
「……あっ、そうか!!」
そうだ、今度からは寝袋の底にカイロをいくつか入れよう!
どうしてこんな簡単なことに気付かなかったんだろう。

気を紛らわせるためにぐるぐると旋回していると、雲を抜けた。
雲の上に出たことは、いつでもすぐに分かる。
まず1つには、地上の音が消えるからだ。ここでは、風が吹く音しか聴こえない。
そしてなによりも、明るいから。雲も大気も遮らない星の光がここにある。
地上から見上げると真っ黒なのに、上空から見上げる空は濃い紺色だ。とってもきれい。

コンディションはいいみたいだ。遠くに風が吹く音は聴こえるけど、
少なくとも、私がいるこの場所には強い風は吹いていない。
とはいえ、上空の風向きが変わることなんてよくあることだから、
寝袋にくるまってしばらく様子をうかがう。
……あったかいなあ。さっきまで寒かったのは、やっぱ風があったからかなあ。

5分ほどそのまま待っていた。わりあい気持ちよくて寝そうになってしまった。
とりあえずは大丈夫そうだ。そう寒いとも感じない。
寝袋のジッパーをすこし下ろして両腕を出す。
たぶん外気温はかなり低いと思うけど、火照った体には心地よい。
上体を起こして、改めてあたりを見渡す。
地上から見るより月は大きく明るく、その周辺の星は光に隠れて見えない。
だけど、空の端の方には月に惑わされない星々が見える。

「んっふっふふ」
ポケットに入れておいたタンブラーを取り出す。
蓋をあけると湯気が立ち上った。ゆっくりと紅茶を飲む。おいしい。
ほうと吐き出す息もすべて白く消えていく。
ゆるく吹く風に体が流され、私の体は回る。
月と、星と、雲と、その下の淡い光と、私の白い息と。
紅茶の香り、私の体の温かさ、空気の澄んだ冷たさ。

そのうち紅茶を飲み終える。体は暖かいけど、そろそろ戻る頃合いだ。
空になったタンブラーをポケットに押し込んで、体を寝袋にくるむ。
そうして私は地上へと帰る。帰りは自由落下だ。耳鳴りさえ気にしなければすぐに着く。

うまく減速してベランダに降りる。部屋に入って、寝巻以外の装備を脱ぎ捨てる。
今日もよかった。ベッドに入りながら考える。布団は冷たいけど上空ほどではない。
「……なにか、……次のためのこと……、あったよなあ……」
枕もとで充電していたスマホをちらりと確認して、私はすぐに眠りについた。